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彼女の福音

参拾参 ― 距離 ―

 

 はぁ、と私はため息をついた。

「ん?どうしたの智代。ため息つくと、幸せが逃げていくって言うわよ?」

 杏が心配そうに私の顔を覗き込む。

「そうだな……」

 私は苦笑しながら豚肉のパックを買い物かごに入れた。

「悩み事があるんだったら、相談に乗るわよ?何なに、朋也のこと?」

「いや、朋也の義妹と、朋也の元上司の義妹のことだ」

 そう言って私はスーパーの一角を指差した。

 

 

 

 

「はっ!このアイス、とってもぷりちーな形ですっ!ヒトデにそっくりですっ!」

「アイスか……そうそう風子さん、知ってましたか。河南子はね、アイスを食べないと炉心融解を始めてしまうのです」

「炉心融解ですかっ!それは大変ですっ!放射能の漏れに関する危険はあるんでしょうかっ!!」

「とりあえずは」

「とりあえずあるんですかっ!もしかすると光坂市は消滅してしまうんですかっ!!」

「とりあえずは」

「消滅ですかっ!!風子、今になって自分の身の危険を感じ取りましたっ!」

「しかも炉心融解が始まる前に、河南子はスーパー聖矢人化して、暴走します」

「髪の毛金髪になるんですかっ」

「まぁ、とりあえずは」

「青銅聖闘士になるんですかっ」

「とりあえずは」

「アンビリカルケーブル切断で内部電源が切れても、使徒を食べちゃうんですかっ」

「とりあえずは」

「風子ショックですっ!!」

 

 

 

 

 

「ああ……あれね」

「ああ、あれだ」

 スーパーで食材を買うだけだから、河南子と風子ちゃんを連れて行っても全く問題なく帰ってこれるだろう。そう思っていた時期が私にもあった。というか、深く考えると疲れるから、ふらっとなってそう思った。今じゃ後悔している。
「というより、そもそも無理があるだろう?体は大人頭は子供が二人もいて、突っ込み役がいないままボケまくるんだから」

「そうねぇ……智代が突っ込んであげたら?」

「御免こうむる。始めるときりがないだろうし……それに……」

「それに?」

 鼻の奥がツーンとする。涙を押しとどめようとするが、声が湿ってきてしまう。

「朋也が……朋也が私には突っ込みの才能はないって……」

「う……わ」

「そしたら鷹文も頷いて、『ねぇちゃんは天然ボケだしね』って同意して……このままじゃ、私はどうしたら……」

 すると杏が私の肩に手を乗せた。

「でも、その後朋也も何か言ったでしょ?思い出してみなさいよ」

「うん……」

 確かあの時も私は泣きそうになって、でもその手を朋也がとってくれて、そして優しく「でもそんな智代が大好きだぞ、俺は」と言ってくれて……

「朋也……」

 その後見つめ合い、視線だけで語ってくれたな、うん。あの言葉なき言葉の温もりは未だに胸の奥を温めてくれている。ああ、朋也。お前のことを思い浮かべるだけで何でこんなに胸が暖かくなるんだ?ふふ、困ったな、私はお前なしでは生きていけないかもしれないぞ?ああ、朋也

「はいはい、そこで笑顔のままトリップしたりしないの」

 む、危ないところだった。

「で、どうしようか。あのままでは……」

 帰るときに困るぞ、と言おうとしたら、風子ちゃんと河南子が私達の方にやってきた。

「というわけで、河南子さんと話した結果、ヒトデアイスを買って食べるのが世界のためだということがわかりました。お支払いを頼みます」

「言ってる傍からこうか……」

 朋也、少しでいいから私に元気を分けてくれ。

 

 

 

 

 

「よし、お安い御用だ智代っ!みゅい〜んみゅい〜んみゅい〜ん」

「は?にぃちゃん何やってんの」

 

 

 

 

 

「だいたい、ヒトデアイスって何よヒトデアイスって」

「これですっ!」

 風子ちゃんが差し出したパッケージには、大きく「スターあいす☆星いな」と書かれていた。

「ヒトデじゃなくて星でしょ、これ」

「パッケージの人が間違えたんですっ!さもなくばスペースがなくなったかインクが切れたか、大人の事情ですっ!近所で大人と評判の風子にはわかりますっ」

「そーそー、杏ちゃん綺麗なんだから、硬いこと言ってちゃだめなのです」

「はぁ……だいたい、何でこれが世界平和のために必要なんだ」

「長い話で、いちいち説明するとサイトの容量を超えるのでカットします」

「どれくらい長い話だ、それは……」

 こう言っては何だが、疲れる。風子ちゃん一人でも疲れるのに、河南子もくるとなると、尚更頭が痛くなってくる。でも、河南子は私の可愛い義妹だ。だからそんなに疲れないはずなんだ。うん、そうだ、そう思うことにしよう、うん。

「しょうがないわね……」

 杏がポケットに手を入れた。目を輝かせる風子ちゃんと河南子。

「ねぇ風子、これな〜んだ」

 しかし杏がとりだしたのは

「木彫りのヒトデさんですっ!」

「そうねぇ、とってもプリチーよね」

「そうですっ!つやつやのお肌、等間隔の触手、とっても……はぁぁあああああああ」

 風子ちゃんが例によって例のごとくトリップを始めた。

「風子さん風子さん、杏ちゃんがヒトデとタップダンスしてラリッてますよ」

「ほんとですかっ」

 河南子の一言でトリップから戻る風子ちゃん。

「そのヒトデはとてもかわいいので、風子への譲歩を要求しますっ」

「あらぁ、いいのかなぁ、そんなに強く出ちゃって?」

 杏がうふふ、と黒い笑みを浮かべる。嫌な予感がする。

「ねぇ風子、これなぁんだ?」

 そう言って杏が取り出したのは

「マジックペン、です……」

「そうねぇ。でも何てかわいいのかしら、このヒトデ。最高よね、ホント。もう手の施しようのないくらい」

「そうですっ!杏さんわかってますっ」

「でね、このヒトデに落書きされたら、困るわよねぇ」

 びくっ、と風子ちゃんが体を震わせた。

「マジックって、木に浸透しやすいのよねぇ。一度浸透したら、紙やすりでも使わないと消えないしねぇ」

「だめですっ!ヒトデさんの顔を削っちゃだめですっ」

「手が滑っておっきく抉られたりして」

「ヒトデさんがキズものですっ!」

「あと、マジックって引火するかもしれないのよねぇ。ライター一本で丸焼け」

 そこには、夜叉がいた。人の心を弄ぶ悪魔がいた。

 こんなのが幼稚園の先生でいいのだろうか。何というか、園児達と春原が少しばかり心配になってきた。

「……要求は何ですか」

「要求?人聞きが悪いわね。あたしはただ、このさいっこうにかわいいヒトデさんがあたしの手にあって、額に『肉』って書かれる可能性を示してるだけよ?」

「それって明らかに脅迫じゃん……」

 河南子のもっともなコメントを無視して、杏が続ける。

「まぁ、その可能性ってやらは、風子がイイコしていると『なぜか』低くなるんだけどね」

「……」

 風子ちゃんはぎし、と歯を噛みしめ、杏の手にある人質を見て、手元のアイスを見ると、ため息をついた。

「河南子さん、今日のところはこれぐらいで勘弁してあげましょう」

 勘弁してもらう立場だったのか。知らなかった。

「風子さん、テロリストには屈してはいけないのですよ?ここは徹底抗戦あるのみです」

「河南子さん、かわいい人質の命には代えられません」

 どうやら風子ちゃんがギブアップしたようだった。どっちが悪役なのか、わからなくなってしまった。

「それが世の中の常ってもんよ」

「お前が言うな」

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして、私達は二手に分かれた。杏が肉のコーナーに行っている間に、私は飲み物を吟味することにしたのだが、風子ちゃんはさっきの一件があり、隙あらばヒトデの彫刻を杏から「救出」「しなければならない」ので、杏にぴったりくっついていた。無論杏もこれはお見通しなので、結局風子ちゃんは体のいいアシスタントとして杏を手伝うはめになっていた。

「まったく、二人とも仕方のないことばかりするんだから」

 私がため息をつくと、河南子がにゃははと笑った。

「まぁそんなに心配しないでもいいっしょ、先輩。先輩のお手伝いは、この可南ちゃんが立派に務めてみせます」

「……そうか、そうだな」

 本当は心配だ。ものすごく、あ、ものすごく心配だ。で、でも、ほら河南子は私の大事な義妹予定なのだから、はなから疑ってはいけない。そうだ、河南子だって立派な成人なのだし、あまり困ったことは

「あ、先輩、訊き忘れたけどアイス買ってもいいんだっけ」

「……」

 考え直している傍からそれか……

「アイスってお酒と合うんだよね、これが。あ、先輩も試してみたらどうっすか」

「また今度な。というより、酒ばかりを買うわけにもいかないからな。朋也も鷹文も、仕事に響いては困るだろう」

「えー。鷹文の仕事ってたかが先公じゃん。そんなの酒飲んでアイス食ってても大丈夫だって」

「お前はどうしてもアイスを方程式に織り交ぜたいようだな。だいたいまだ春じゃないか」

「先輩ってアイツとアツアツだけど、夏でも冬でもアツアツだよね。よく暑苦しく思わないなーって」

「愛の温度は季節の移り変わりとともに趣向を変えるものなんだ。二人の夏には夏の良さがある……って、何だか変なことを言っている気がするぞ」

「アイスもそれと一緒ですよ。春のアイスには春なりの趣があるんです」

 

 

 

 

 

「む」

「どうしたの、芳野さん」

「いや……気のせいだろうか。どこかで誰かがアイスと愛を同じ次元で語っている気がしてな」

「……それがどうしたの」

「わからないか?愛とは崇高にして不可侵、神々しく気高いものだ。そんじょそこらの氷菓子と同じにしたら冒涜だ。そもそもだな……」

 

 

 

 

 

 結局アイスを籠に入れることになった私は、果たして弱いのだろうか。すまない、とも。私はまだまだ強くならなきゃいけないな。

「そう言えば先輩、変なこと聞くけど」

「今度は何だ」

「先輩とアイツ、どっちが先にプロポーズしたのかなぁって」

 私は一瞬足を止めた。

「……朋也がしてくれた。もちろん、その時点で私には朋也しかいなかった」

「やっぱそうだよね、うん。そうなるよね」

「河南子……」

 河南子はにゃはは、と笑ったが、その笑顔の後ろに寂しさを感じ取った。

「しょーがないなー。もうちょっと待ってやるか」

 私達はしばらく無言で食品棚の前で立ちつくしていた。

 河南子と鷹文は、中学の頃から付き合っていた。訳あって一時は別れざるを得なかったが、高校生になった最初の夏に、とある奇妙な成り行きでよりを戻した。そして鷹文が教師として仕事を始めてからは、ずっと同棲生活が続いている。姉である私から見ても、二人は楽しそうに日々を過ごしているし、河南子も鷹文も一緒になってもおかしくない歳なのだが、それでも二人の間には微妙な隙間があった。

「……あの、夢なのか」

 河南子がこくんと頷く。

「今でも、つーかこの頃よく見るみたいだね。ここんところ汗ぐっしょりで起きるようになった」

 夢。今は亡き河南子の実父の夢だった。それは私達の弱さの傷跡であり、鷹文が自分で背負い込んだ十字架でもあった。

 はぁ、と悲しげにため息をついて河南子が続ける。

「いつになったら、あいつ許されるんだろ。いつになったら、あいつ、許してやれるんだろ」

「……そう、だな」

「ねぇ先輩、あたしさ、先輩とアイツの間であったこと、聞いたんだ」

「……うん」

「先輩も辛かったよね。忘れられちゃうなんてさ、結構神様もエグイことするよね」

 でも、と河南子は口にした。

「でも、それでも先輩、傍にいたんだよね。アイツがまた立ち直れるまで、頑張ったんだよね」

「違う。頑張ったのは朋也だ。私は、ずっと傍にいることすらもできず、ただひたすら信じただけだ」

 結局のところ、あの奇跡を起こしたのは、朋也の私に対する想いだった。二人でいた時間が、その間に蓄積した強い絆が、最後の最後で二人を繋ぎとめたんだと思う。

「でも、頑張ったよ、先輩。だからさ、今度はあたしが頑張る番」

 そして河南子は私に笑いかけた。

「あたしもさ、大したことはできないけどさ、鷹文の傍にいて勝手に死んじゃった馬鹿親父の代わりに許してあげることぐらいしかできないけどさ、それでも頑張るよ、先輩」

 それは強い笑顔だった。どんなことにも負けない、そういう意志のこもった笑みだった。

「河南子、その……」

「謝んない、先輩」

 言葉を遮られ、私は「え?」と河南子をまじまじと見た。

「ここは謝るところじゃないでしょ」

 その顔を見ていると、ふっと笑顔が浮かんできた。

「そうだな……河南子」

「はいはい」

「……ありがとう」

「いえいえ。どーいたしまして」

 そこで私達はふふふ、と笑った。

「あ、でも鷹文が浮気とかしたら、容赦なくボコるけど、いいよね先輩」

「ああ、許可する。ついでに私からも絶縁してやろう。知らない家の子だな、って」

「うんうん。先輩もアイツが浮気しないように気をつけないとね」

「その心配は無用だ。朋也が浮気なんか……」

 朋也が浮気……

『智代っ』

 朋也が……

『智代……』

 浮気……

『智代……悪い』

 朋也が浮気なんて……

『智代のことが嫌いになったわけじゃないんだ。いや、お前は全然悪くない。悪いのは俺なんだ』

 浮気なんてしたら……

『こんな奴のことなんて、早く忘れて、お前は幸せになってくれ。な?智代』

 朋也が浮気なんてしたら、私はどうすればいいんだっ

「朋也ぁ……ぐす」

 目の奥が熱い。胸がずき、と痛み、何かが喉の奥からこみ上げてくる。

 朋也、そんな悲しいことを言わないでくれ。お前のことを忘れるなんて、私にどうやってできる?私に至らないところがあるなら治そう。私よりも魅力的な女がいるんだったら、私はもっと頑張ろう。だから、な?私と別れるなんて、そんなこと、もう言わないでくれ。

「……うわ。先輩にスイッチが入っちゃった」

 遠くで義妹の声が聞こえたような気がしたが、その時の私はそれどころじゃなかった。

 

 

 

 

「??」

「ん?今度は何?」

「いや、気のせいかもしれないけどな、智代が帰ってきたら抱きしめて愛してるって言わなきゃならない予感がしてさ」

「は?」

 

 

 

 

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